かたりびと
目次
NO RADIO NO RONDO |
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二足のワラジで、夢に前進! |
運命を変える出会い |
声の表現者として生きていく |
モンスターからの伝言 |
最高で最強のナレーター夫婦 |
アトミックモンキーへ移籍 |
ナレータープロフィール
好きなマイク | ノイマン U 87 Ai |
好きなカフボックス | トライテック ACS-OP1 |
好きなヘッドホン | ソニー MDR-CD900ST |
特技 | パンチイン |
よく使うワード | しか〜し!すると?!そこで! |
最長ナレ録り時間 | 13時間連続(企業DVD4時間分) |
利き手 | 右 |
視力 | 2.0(原稿読みはメガネ着用) |
愛用ボールペン | パイロットドクターグリップ4+1 |
愛用メガネ | 金子眼鏡店、オークリー |
お気に入りのど飴 | 森下仁丹「鼻・のど甜茶飴」 |
収録のお供 | ミネラルウォーター、ブラックコーヒー |
好きなMA飯 | オーベルジーヌのチーズカレー、天辰のさわらバター焼き |
信条 | 納品第一 |
NO RADIO NO RONDO
三村家の朝はAMラジオから始まる。
そんな家庭に育った僕は、小学生の時からラジオを聴くのが好きで、特にAMの電リク番組やランキング番組などを聴いていた。
好きだった遊びは「ラジオ番組ごっこ」。
弟や従兄弟と音楽をかけながらカセットに録音していた。
とにかくラジオを聴くのも真似るのも大好きな少年だった。
未だに旅先の車中で聴くのは地元局のラジオ番組だ。
中学3年生の頃、
親に買ってもらった自分の部屋専用のダブルラジカセ。
チューニングしていたら、地元の話で盛り上がる番組が。
全く知らない周波数…
それは地元のミニFM局だった。
現在は法律的に難しいが、当時は自宅でミニFM局を立ち上げる人が多かった。
いや、僕が住んでいた近辺にやたらと多かったのだ。
そして突然始まったのが、J-WAVE開局直前の試験放送…
今まで聴いた事が無いスタイリッシュな選曲、トーク…
全てに衝撃を受けた。
「すごい!僕もやってみたい!」
そこから僕のラジオDJへの想いが強くなっていった。
自宅の部屋でミニFM局も始めた。
4畳半スタジオで好きな洋楽をかけながら拙いひとり喋り…
それでも「この声が誰かに届いてるかもしれない」とワクワクした。
この経験が僕の礎となった。
二足のワラジで、夢に前進!
当時、好きでよく聴いていたラジオ番組は、
三宅裕司さんの「ヤングパラダイス」や
岸谷五朗さんの「東京RADIO CLUB」。
経験や表現力、人間力に裏付けられた
俳優さんの喋りの面白さに魅せられた僕は、
自分自身の表現の幅を広げたいと、20歳で俳優の道を目指すことに。
映画会社「東映」の演技研修所「東映アカデミー」に入所。
映画やドラマのエキストラ出演から端役まで、コツコツと現場経験を積み重ね、4年間所属。
大体、医者か警官、たまに宇宙基地の隊員など制服着た役ばかりだった記憶が(笑)
「電磁戦隊メガレンジャー」に出演。基地の隊員・三村役。
と同時に縁あって、有線放送の洋楽専門局「FM Banana」でお昼の3時間生放送の番組を担当。自分で選曲、リクエストにも応えながらワンマンスタイルのDJ。リスナーと濃密な時間を過ごせた。
その後、二子玉川にあったテーマパーク「ナムコワンダーエッグ」内にあるサテライトスタジオで園内DJ。さらにコミュニティーFM局エフエム世田谷で開局から番組を担当した。
エフエム世田谷でパーソナリティを務める24歳のロンド
さらに、地元下北沢の演劇情報番組の企画を立ち上げた。全て自費制作。取材交渉、キャスティング、稽古場インタビュー(全国どこへでも)、編集、収録、そして納品…ミキサー以外ほぼ全てをやった。
運命を変える出会い
俳優業・ラジオDJに情熱を燃やす一方で、
やたらと「声」のみの仕事が増えていた。
映画のオーディションを受けた時も、
「見た目は普通の青年なのに、意外なトーンの声を出すんだね!」
と、芝居よりも声に驚かれることが多くなっていた。
(ちなみにこのオーディションは落ちた・笑)
そんな折に舞い込んできた、とあるラジオCMの仕事。
社長と部長のやり取りだが、22歳の僕は40代の部長役(笑)
そのときの社長役が、声優の緒方賢一さんだった。
共演をきっかけに、緒方さんから「その年代で君のような声質を持った子はいない。声優にならないか?」と光栄な事に、熱心に誘って頂いたのだ。
最後まで悩んだ末、俳優やラジオDJとして結果を出したい想いが勝り、お断りしたのであった。断腸の想いだった。
しかし、声のプロ・緒方さんに評価されたことが、
「自分の強みは声なんだ」と自覚する大きなきっかけとなり、
後の進路を変える、運命の出会いとなったのだった。
緒方さんのあの言葉がなかったら、
ナレーターとしての僕はここにいなかったかもしれない。
あのときお声がけ頂いた事、今でも心から感謝しています。
それからまもなくして…
声の表現者として生きていく
ある日突然、ナレーター事務所の社長からスカウトされた。
エフエム世田谷で担当していた演劇情報番組。
出演していただいたゲストが所属していた芸能プロダクションのマネージャーが、僕を社長に紹介してくれたという。
僕のラジオ番組を聴き、20代前半でこのトーン、発想、表現の引き出し、なかなかいないと評価を受けた。
「声で生きていく」
そんな道を考えるきっかけを緒方賢一さんにもらってから、新たな移籍先を探していた絶好のタイミングだった。
しかもこれまで情熱を注いできたラジオ番組を聴いた上で、声の表現者としての可能性を見出してもらったことに感激し、新たなフィールドでチャレンジしようと「ナレーター事務所」に移籍加入を決意。
加入してからは怒涛の展開。
2週間後にはフジテレビ深夜番組のレギュラーがいきなり決まったのであった…
モンスターからの伝言
初めてナレーションを担当した番組。
放送を終え、携帯電話の画面を見ると留守番電話にメッセージが一件。
「あー、もしもしー…」
声ですぐわかった。
ナレーター界のモンスター・垂木 勉だ。
このとき、まだ面と向かってお会いした事はなかった大先輩。
僕が担当した番組のオンエアをチェックし、電話してくれたのだ。
「大変よかったと思います。会えるのを楽しみにしています!」
垂木さんの人柄に触れ、嬉しかった。
その後、多くの人に支えられ、
ナレーションの仕事に恵まれるように。
「ナレーターは第一線で10年頑張って、ようやく一人前になれる」
社長や先輩方からの言葉をモチベーションに、慢心せず走り続けた。
そして2009年6月、垂木さんが立ち上げた事務所「ザ・ユニバース」に移籍。
気付けば、もう20年以上の付き合いになる。
最高で最強のナレーター夫婦
社長や先輩方に言われたことで
印象に残っている言葉がもう一つある。
「この業界、結婚は早いか遅いかだ」
その言葉通り、40代を越えるまで、
結婚の二文字が頭に浮かばなくなるくらい
ナレーターという仕事に夢中になって取り組んできた。
2019年2月。
事務所の後輩ナレーター・柏田ユウリと結婚。
「同業で、しかも事務所内で結婚なんて僕にはあり得ない」
と思っていた僕だったが、人生わからないものだ。
湘南ベルマーレvsアトレチコパラナエンセで妻が英語アナウンスを担当。初の夫婦共演。
現在は二人で、
最高で最強のナレーター夫婦を目指して、支え合い、励んでいる。
▶︎妻・柏田ユウリのオフィシャルサイト